かみしろの小説

別に、読まなくったって生きていける

禿田氏の受難

 これから、この物語の主人公となる男のプロフィールを、軽く紹介しよう。
 名は、禿田徹平。四年前、人員削減を掲げた会社の求めに従って、早期に自主退職し、多額の退職金を得た。退職後、家庭を顧みなかった仕事一徹の生活から脱し、妻との、慎ましいながらも穏やかで、あたたかな愛にあふれた生活が送れることを夢想していたが、退職と同時に妻から三行半を突きつけられる。
 子供がひとりいたが、大学進学とともにひとり暮らしを始め、両親のいざこざには一切不干渉。退職金は、泣いてすがるおっさんの言い分にまったく耳を貸さない、「四十年間、ずっと我慢してきたのよ。家事なんて、面倒くさいのよ」と訴える妻とともに、慰謝料という名前に改名して去った。
 現在、男は、妻の目から最後まで隠しきった雀の涙ほどのヘソクリと年金で、毎夜、スナック『四十年目の憂き目』のホステス、ヨリコとの、偽りの夜に生きがいを見出すしかない、寂しいやもめ生活を送っている。ちなみに、ヨリコは、四十代後半の、ただのデブのおばはんである。
 さて、主人公にしては、何の華もない男が、一本の電話を取るところから、この物語が始まる。

  チリンチリン……
    チリリリリリン……

 寝そべって、野球のテレビ中継に見入っていたおっさんは、電話のベルが聞こえてきて、文字通り飛び上がった。
 おっさんのひとり暮らしには、珍しい電話のベルである。おっさんは、「もしかしたら、あいつめ、寂しくてとうとう復縁を迫ってきたか。このやろうめ。今さら遅いんだもんね。絶対、復縁なんかしてやらないもんね」と強がりつつも、内心、心臓をドキドキさせながら、白の肌襦袢を身に着けただけの格好で、今や世にも珍しい黒電話の受話器を取った。

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「はい、もしもし」
 もちもちと言った方がウケたかな、とつまらんことを後悔しつつ、おっさんは相手の反応を待つ。
「……もしもしぃ?」
 なかなか返答がないので、心配になってもう一度問いかけると、電話の向こうからすすり泣く声が聞こえてきた。おっさんは、ぎょっとして訊ねる。
「ど、どうした……」
「オ、オレ……、オレぇ……」
 喉の奥から紡ぎだされる悲痛な声に、おっさんはもらい泣きしながら、
「ヒロシ! ヒロシなのか?」
 と、久しぶりに聞く息子の声に、はしゃいで名前を連呼した。
「う、うん。そう、オレ、ヒロシだよ」
 電話の向こうのヒロシは、嬉しそうに自分の名前を復唱した。今までの泣き声はどうした、と言わんばかりの明るさである。
「ヒロシ、久しぶりだな。どうだ、大学は」
 およそ四年ぶりの息子のサプライズな電話に、おっさんは、このまま屋根を突き抜けて、宇宙まで飛び上がってしまうような心地だった。実際には、そんなことは不可能であるが。
「うん、それなりに頑張ってるよ」
「そうか、それなりか。さすがだな」
 どこに感心する要素があるんだ、という応答ではあったが、当のおっさんは嬉しそうであるので、あえてつっこまない。
「それでどうした、息子よ。何か困ったことでもあったかニャ?」
「えっ、あ……うん」
 突然、おっさんが妙な口調で話しかけてきたので、若干、ヒロシはひいてしまった。
 彼は、調子を取り戻すために、軽く息を吐くと、言った。切羽詰ったように。
「オレさ、事故ちゃって。どうしよう」
 この一言で、この親子の未来に暗雲が漂う――
「まじでか」
 予定だったのだが、意外に軽いつっこみで、雲は早々に晴れてしまった。
「それがさ、相手がやばいんだよ」
 しかし、ヒロシもプロである。予想外の反応にも、慌てず続けた。
「そうか。どれくらいヤヴァイんだ。わしぐらい、ヤヴァイのか? そりゃあ、発毛実感コースを薦めてあげた方がいいんじゃないか? いや、今はかぶる方がいいのか? 技術が上がっているようだしなあ。最近CMでも……」
「いや、その話じゃなくて」
「その話じゃないヤヴァイって、いったいなんの話だっ! 父親を舐めとるのか、息子よっ! 髪の毛がなくなるのを舐めておったら、おまえもわしの息子なんだから、今にも……」
 声を荒げていたおっさんは、そこで言葉を切り、やがて脳裏に浮かび上がってきた過去に、受話器を強く握り締めると、よよと泣き崩れた。
「突然、髪の毛が大量に抜けてゆくあの恐怖を、味わうんだぞ、このやろうっ」
「……」
「聞いとるのか、息子よっ!」
「え、あ、聞いてるよ」
 だが、その声には、聞き流していたに違いない軽さがあった。
「そうか。わしもな、おまえみたいなフッサフサ、バッサバサだった時もあったんだ」
「へ、へぇ」
 申し訳程度に相槌を打つヒロシ。
「でもな、遺伝てのは恐ろしい。わしもな、物心付いたころから、ずっとハゲ頭の親父しか見たことなかったんだが、あれは一種のアヴァンギャルドなファッションだと思ってたんだよ。今で言う、ちょいワル系? みたいなァ。だから、驚いたね、あの悪夢の到来は」
「あのさ……」
「いつものように頭を洗ってたら、突然……突然だっ! 髪の毛が大量に、手にへばりついてきて、頭のてっぺんを見ると、そこにっ」
 おっさんは、そこで息を詰め、
「嗚呼……」
 まるで、俳優の演技のように絶妙なタイミングで、大いなる悲哀がこもったため息をついた。
「ないんだよ、毛が」
「……」
「なかったんだよ、毛が」
「…………」
「二度と、生えてこなかったんだよ、毛がっ!」
「………………」
「……ねぇ、聞いてる?」
 おっさんは、返答のないヒロシのことが心配になって、声をかけた。我ながら、白熱しすぎたと反省したからだ。……かたじけない。でも、お願いだから見捨てないでねっ! お願いだから、電話切らないでねっ! 物語、終わってしまうからねっ! 作者からも、お願いしますねっ!
「オ、オレ、本当に困ってるんだ」
 おっさんや作者の焦りは余所に、心細そうに訴えかけてくるヒロシ。おっさんは過去を思い、同情した。
「わかる、わかるよ」
「相手がね、やばすぎるよ」
「そうだな。でも、こればかりは仕方がないんだ」
「わかってる。だから、電話したんだ。この苦しみを、父さんにわかってもらいたくて」
「ああ、わかる。わかるよ。大いにわかるよ。わかりすぎて、鼻水出てくるよ」
 言葉どおり、おっさんはじゅるっと鼻をすすった。
「お金を、送って欲しいんだ」
 おっさんの涙に、時機を悟ったヒロシは、とうとうこの言葉を言った。
「金か? 金でどうにかなるのか、世の中は」
「うん、どうにかなるよ、絶対」
「言い切れるのか、息子よ」
「言い切れるよ、絶対」
「そうか、成長したな」
「だろ?」
 ヒロシは、ほくそ笑んだ。さあ、これで仕舞い――
「それで、どこの会社にするんだ?」
 だと思っていたから、おっさんが、そう訊ねてきたとき、ヒロシはとっさに言葉を返せなかった。
「おや、まだ決めていないのか? だったら、わしが紹介するぞ。紹介特典、もらいたいしな」
「……うん、まあ、それでいいかな」
 何の話だ? 頷きながら、思うヒロシであった。
「そうか、わかった」
「……」
「どうした」
「えっ」
「嬉しそうじゃないな」
「う、嬉しいよ、ものすごく」
「どれくらい」
「……」
 だから、何の話だ。
「髪の毛が生えてくるぐらい嬉しいか?」
「う、うん……」
 何となく、同意した。
「ヘイ、ジョニー! だったら、発毛育毛専門クリニックに行く意味がないじゃないか」
「っ……」
 明らかに言いにくそうな言葉を、さも当たり前に言ってのけるおっさんに、ヒロシは、失笑する自分を隠しきれなかった。
(ジョニーって誰だよ)
「せめて、飛び上がって、屋根を突き抜けるぐらい嬉しい、にしようよ」
「……うん、それでいい」
 うんざりして、そう言葉を返すヒロシ。 
(さっきから妙な奴だと思っていたが、まったく理解できそうにねえな。ボロが出る前に、電話を切ってしまった方がいいだろうか。でも、なぁ……)
「ヒロシッ!」
 突然、おっさんが大きな声を張り上げたので、心中愚痴っていた男は飛び上がった。が、一応言っておくが、屋根を突き抜けるほどではない。ないが、企みがバレたのかと思い、屋根を突き抜ける経験ほどに動揺した。
「な、なに」
 心臓が、ドクドクいっている。
「おまえ、なんでそんなに自主性がないんだ。そんなんで、世の中やっていけると思ってんのか? 親に言われたからといって、コロコロ意見を変えるような奴では、これから先、ずっと他人に翻弄されるがままの人生になるぞ。自分の意見を貫きたい時もあるだろう。だったら、相手が誰であろうと、ビシッと言ってやらなくてはいかん。それが、男ってもんだ。わかったかッ!」
「……ごめん、父さん」
 耳元で騒ぐ大声に、キーンと耳鳴りがした。
「そう……素直なのはいいことだよ。それでこそ、我が禿田家の息子だ」
「ぷっ……」
 何を聞いたか、ヒロシは、噴出してしまった。
「ヒロシ、何を笑っている」
 コトリと受話器が置かれる音が聞こえ、電話の向こうから、大声をあげて笑い出す男の声が聞こえてきた。そんな男の声を、読者には特別にお聞かせしよう。
『ハゲタ家って、そっ、そんな名字があるのかよ。ははっ、しかもそいつ、まじでハゲてるなんて、ありえんのかよ。ありえねーよ、お笑いだよ、わけわかんねぇよ』
 もっともな意見である。
「なんだぁ?」
「ごめん。なんでもない」
 突然、声が返ってきた。おっさんは、ほっとする。また、見捨てられたかと思った。妻に三行半を突きつけられた男の、心の傷がジクリと痛んだ。
「現場の近くで、誰かが笑う声が入ってきただけだよ」
「現場って……。事件は、現場で起きているのかっ! 会議室じゃなくて、現場で起こってるのかっ!」
「そうだよ。(って、ネタ古いな)実際は、事件じゃなくて事故だけど」
「事故? 何の話だ」
「ふぅ」
 そこでヒロシは、深いため息をついた。
「だから、さっきからずっと言ってるじゃん。オレ、事故にあったんだよ」
 うんざりだ。何度、話をはぐらかせば気が済むのだろう。ここまで厄介なターゲットも、なかなかいない。騙されている気配はあるのに、話が噛みあわない。隙だらけのように見えて、隙がない。これは、早々に電話を切ってしまうべきだ。しかし、なぜだか引き込まれる。
「その相手が、ヤヴァイんだろ」
「そうそう。話通じてるじゃん」
 ヒロシは、なんだか嬉しそうである。
「それで、示談金はいくらぐらいなんだ」
 おっさんは、急に話がわかったように、肝心な質問を投げかけた。
「百万円」
 なぜ日本人は、とかく百万円という言葉が好きなのだろう。
「まじでか」
「今日中に振り込んで欲しいんだ」
「それで、息子の命は保証されるんだな」
「そうだよ」
「もし振り込まなかったら、どうなる」
「たぶんオレ、売り飛ばされると思う」
「心臓を、か」
「それだったら、オレ死んじゃうじゃん」
「それもそうだな。じゃあ、ほかに何を売るんだ? そうだ、腎臓とかいいんじゃないか? 二つあるしな。でも、それって、いくらぐらいで売るんだ」
「さぁ……」
(なんで、内臓売る話になってんの)
「目ん玉とかも、売れるんじゃないか」
「ああ、二つあるしね」
 ヒロシは、おっさんのボケにつられた。
「でも、これだと安そうだな。小さいし」
「まあ、オレもよくわかんないけど」
(大きさとか、そういう問題か?)
「でも、ヒロシは近眼だから、高値がつかないだろうな」
「そ、そうだね、うん」
 そうか、息子は近眼なのか。どうでもいい情報である。が、ヒロシはメモしておいた。後々、役に立つ気がした。
(……って、役立つかっつーの)
 ヒロシは、ノリつっこみを習得した。
「それで、振込先はどこになるんだ。時間も時間だし、早くしないと銀行閉まるだろ」
「わかった。聞いてみる」
「ああ、待ってるよ。いつまでも、キミのためなら~♪」
(何の歌だよ)
「作詞作曲は、わしだ。いい歌だろう?」
(こ、心の声に答えた、だとぉ? もしかして、あんたサイキック……)
 やがておっさんは、ヒロシの口から振込先を聞き出した。しかし、それはもしかすると、おっさんの術中にはまって、吐き出してしまった情報かもしれない。あの歌は、催眠状態に入る前の呪文だったというわけだ。
(そんなわけないだろ)
 か、神視点の作者につっこむとは……。ヒロシ、もしかして、あんたサイキッ……。
 ヒロシは、神をも凌駕するつっこみを習得した。
「岩野苔男、でいいんだな。そのヤヴァイひとの名前は、岩野苔男でいいんだな」
「うん、そうだよ」
「そうか、確かに人間に付ける名前じゃないな。さすがに、名前も相当ヤヴァイな」
 禿田、お前が言うなよ、とヒロシはつっこみを入れた。
「では、早速振り込んで来るが。息子よ、最後に何か言い残したことはあるか」
「特に、ないけど」
 電話の向こうで、ヒロシは眉を顰めた。他に、何か言い忘れている台詞はあっただろうかとマニュアルに目を通したが、特に不足は無い。
「後悔、しないんだな。もう絶対、過去を振り返ったりはしないって、そう言うんだな」
「何の話?」
「いや、こっちの話」
「って、何の……」
「あ、間違えた」
「えっ?」
「わし、うっかりしてた。こっちじゃなくて、あっちの話だ。そうそう、あっちあっち。アチチじゃないよ。別に熱くもなんともないんだから。あっち、だ」
 妙に力説するが、いったい何が言いたいのかよくわからない。
「……だから、なに」
 もっともな意見である。
「息子よ。一つだけ、聞いておきたいことがあるんだ。聞いてくれるか? 最後の親孝行と思って」
「最後、だなんて」
「おそらく、今生においてヒロシと言葉を交わせるのは、もはや今日限りだと思うから」
「何言ってんだよ、父さん。まだ、そんな年じゃないじゃないか」
「……」
「父さん?」
「ああ、聞いてるよ」
「どうしたんだよ」
「い、いや。鼻水が」
「泣いているのか?」
「な、泣いてなんかないもん、わし」
「そう?」
 嘘つけ! どう聞いても涙声だろうが。
「わしはな。あいつと別れてから、色々と反省したんだよ。今にして思えば、あいつが出て行ったのも、必然だった、ってことがわかる」
「うん……」
 しかし、ヒロシには何のことだかわからない。
「だから、ヒロシには後悔のない人生を生きて欲しい。まっとうな人生を送って欲しいんだよ」
「……」
「わしは、そんなヒロシに、あえて教えといてやる」
「うん……」
「わしにはな」
 そう言いかけて、おっさんは口を噤んだ。ヒロシも、あえて口を挟まなかった。ヒロシは、その長い沈黙の中、ゴクリと唾を飲み下した。
(これから、このおっさんは何を言い始めるのだろう)
 ヒロシは若干、楽しみでもあった。
 やがて、おっさんは深いため息をつくと、重大発言をした。
「わしには、息子はいないんだよ」
「えっ?」
 衝撃が、いかに仮名ヒロシなる人物の脳天を喰らわせたかは、想像に難くない。
「だからヒロシ。いい加減に、振り込め詐欺から足を洗いなさい」

 ――その日の夜。
「ヨリコたぁ~ん。わしの武勇伝聞くかァ?」
「んもう、てっちゃんかっこいいぃ」
 何の話だ。武勇伝聞く前に言うセリフじゃないだろ。
「ところでな、ヨリコさん」
 えっ、もしかして作者放置ですか。
「なぁにぃ? 改まって」
 おっさんは、ヨリコに向かい合い、その両肩に手を置くと、真剣な眼差しを向けて言った。
「結婚してほしい」
 おっさんの、一世二代目のプロポーズを聞いて、ポッと頬を赤らめるヨリコ。しかし、その姿を見て妙に腹立たしく思うのは、作者だけだろうか。だってね、ただの太った中年のおばはんが、そんな純情な反応をみせとるんですよ。どう見たって、腹立つでしょ。
「はい。徹平さん」
 あら、また作者放置ですか。いい加減、筆投げますよ。
「これ、婚約指輪なんだが」
「んまあ、キ・レ・イ(はぁと)」
 もはや何も言うまい。
「サイズ、合ってるかにゃぁ?」
「ん、んんっ? ちょっ、ちょっときついけどぉ、根性で入れるわぁ」
 ヨリコは、明らかに小さい指輪を、その太い指にぎゅうぎゅうと入れ込もうとしている。そんな必死な様子を、微笑ましいと言わんばかりに、嬉しそうに見つめているおっさんがひとり。
「式はいつにしようか」
 指輪を入れる手を止めたヨリコは、おっさんに振り向くと、言った。
「そうねぇ。でも、その前にぃ……」

 その後、おっさんがどうなったか。人生には、様々なドラマが待ち受けているだろうが、彼は、よほど女運が悪いのか、実はヨリコは結婚詐欺師であった。あれから散々、ブランド物のバッグやらアクセサリー、現金を貢がせたあげく、他の男と高飛びしたのである。振り込め詐欺を撃退したおっさんも、女には敵わなかったのだ。
 げに恐ろしきは、女かな。
 あわれ、禿田徹平。
 キミの頭に明るい未来はやって来るのか。ある意味において、キミの頭は非常に明るいが、恐らく、人生における明るい未来などは用意されてはいないだろう。なぜなら、作者である私が、そんなストーリーを書いてやる必要性を、まったく感じないからである。なぜなら、そんなストーリーを書いたって、なぁんもおもしろくも何ともないからである。
 それにしても、仮名ヒロシなる人物は、あれからどうなったのだろうか。これについては、後日、お話できるだろう。

老人喰い:高齢者を狙う詐欺の正体 (ちくま新書)

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